先週は引き続き、「日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか」の本から、その第2の理由について考えます。本書では次のように述べています。「牧師・指導者(長老・役員・執事たち)が未熟であたから」であると。インタビューの内容には牧師・指導者の人間的な未熟さを指摘するものが多かったそうです。特に「牧師たちが自分の持っている知見や信仰理解に固執している様子がうかがえた」と共同研究者らは評価しています。しかしながら、それは牧師に限らず、日本のクリスチャン全体の未熟さが故に、世の中の人々はキリスト者に対するネガティブな印象を持ってしまっているのだという判断かなと思います。福音の真実を語ることは時として迫害を呼ぶことは確かです。新約教会の先輩たちも教会の外からの迫害にさらされていました。ステパノ執事が石打たれて亡くなった事件がそれを物語っています。ただ、それは人間的な未熟さによるものではないため区別したいところです。牧師を含めたクリスチャン一人ひとりが高い意識を持って行動していくことにより、未熟さからくる批判を最小限にできます。まず私たちが、聖書の教えに立って、道徳的にも倫理的にも善良な市民でありたいですね。その上に、イエス・キリストの愛を隣人に流す人々でありたいと願います。愛を持って接する人々には人格的な未熟さがあったとしても、受け入れていただくことができるからです。
そのような未熟さにも関わらず、私たちに救いの恵みを与えてくださった主にただ感謝を覚えましょう。主への感謝と喜びを表しつつ、隣人へ愛を流すために励んでいるのなら、立派なクリスチャンとしての歩みができている何よりの証拠です。次週は最後の3番目の理由についてです。