菰野で幼稚園を営みつつ、牧師として教会に仕えておられた地域のK先生の葬儀に行ってきました。一昨年から体調を崩されましたが、先週の木曜日に天に召されたと聞き、土曜日の告別式に参列させていただきました。式場の幼稚園には多くの参列者が集われ、室内はいっぱいになり、小降りの雨が降り注ぐ中、屋外に立ってK先生との別れを惜しむ人々の姿が見られました。非常に多くの方々に愛されていた先生であったことがよくわかりました。ご遺族の皆様の上に主の慰めを祈りつつ、式場を後にしました。そのような葬儀に参列しつつ、思われさたことをいくつか分かち合います。
もし今日、私が死んで天に召されたのなら、私の葬儀はどのような形で行いたいと願っていますか? 私は死んでいないのだから、どうでも良いと思ってはいませんか? 信頼できる葬儀屋さんに任せれば心配ないと思うかもしれません。確かに、最も大事なことは、私たちがまだ息のあるうちにどのような信仰を持って生きたのかです。でも、決しておろそかにしてはならないことは、死んだ後に、周りの人々にどのように「記憶される」のかです。私の生き方は、私が死んだ後も神様の素晴らしさを現し続けることができるでしょうか。ぜひ、自分の葬儀を通して多くの人々に神様の恵みを現し、生涯を通して神様と教会に仕えたことの感謝と喜びが存分に証される葬儀を作り上げることができるように、日頃から備えておくことが必要ではないかと思わされています。
もう一つ考えたいことは、私の葬儀にはどんな人々が、何人ほど来るだろうか、ということです。私を愛し、別れを悲しむ多くの人々に囲まれた葬儀はなんと美しいことでしょうか。愛は分かち合った分が戻ってきます。日頃から家族や隣人にたっぷりと愛を分かち合う生き方をしていきたいですね。葬儀とは、愛の実が如実に現される時であると言っても過言ではありません。
皆さんはどのような葬儀を行いたいでしょうか。そのために今日をどのように生き方をすべきかを悩みつつ、周りの人々にしっかりと愛を分かち合う日々を送りましょう。私たちに残された時間は決してそう多くはないのです。